Exploration
道徳実在論・誤謬論と価値的現れ
Question: 客観的価値があるとすれば、それはどの認識層で把握されうるのか。現象的な快苦から直接現れるのか、それとも宇宙・意識・合理性を説明する最善理論として推論されるのか。
二種類の実在論ルート
基礎的実在論ルート: 規範的拘束性をもつ価値が、単なる快・不快ではなく、認識論的最小基礎と同等の強さで与えられる。この場合、価値探索の停止条件に近づく。
推論的実在論ルート: 現象的価、主体間対称性、理由、合理性、意識や宇宙構造を総合すると、客観的価値を仮定することが世界の最善説明になる。この場合、価値実在へ非常に高い確信を持つことはできるが、推論層である限り適切な懐疑は残る。
現象的価の位置
苦痛の「嫌さ」のような現象は、少なくとも主体内部の価的事実としてかなり強い候補である。しかし、そこから「主体の違いを越えて同じ重みを持つ」「それを減らす理由が全主体にある」と進むには追加の橋が要る。
したがって現象的価は、実在論への手掛かりとして重視しつつ、現在のところ基礎的客観規範性そのものとは区別する。
誤謬論が真だった場合
客観的規範事実が存在せず、道徳言明が体系的にそのような事実を仮定して失敗しているなら、価値探索は「隠れた真の道徳」を発見する活動ではなくなる。しかし、主体が実際に持つ評価構造、制度、経験、将来の構成条件を理解・比較・更新する探索は残る。
Coreへの含意
Coreは実在論と誤謬論を先に決着させない。実在論が真なら、基礎的提示と推論的発見の双方を探索する。誤謬論が真なら、より反省的な価値構成の条件を探索する。
重要なのは、推論的実在論が圧倒的になった場合にも、それを実践上強く使える一方、推論的確信と不可逆な認識的ロックインを同一視しないことである。