宗教的世界像は規範性を与えるか――世界認識・制裁・善性・権威の分解
I. 宗教というパッケージを解体する
1. 「宗教は真か」という問いは粗すぎる
宗教は一個の命題ではない。本ページではまず宗教的パッケージを、世界記述 D、既存の目的と世界像から出る仮言的・手段的含意 H、規範的主張 N、文化的・象徴的表現 E、制度的実践 Iに分ける。さらにNの内部を分析するときだけ、価値内容 C、価値や世界事実から規範関係へ進むbridge B、理由・義務・許可・適合性などを含む規範構造 Rを区別する。すなわち外側では Religion = D/H/N/E/I、必要なときには N = C/B/R と展開する。同じ「宗教的」言明でも、復活が実際に起きたという主張、地獄を避けたいなら悔い改めよという助言、神は礼拝されるべきだという規範、復活祭を共同体的に祝いたいという選好は、別の評価規則を要求する。
この点でGouldのNOMA(Non-Overlapping Magisteria)は重要な先行例である。Barbourが科学と宗教の関係を conflict / independence / dialogue / integration に分類した中で、NOMAは典型的にindependence側へ置かれる。Gouldは科学を経験的世界の事実と理論、宗教を意味・価値・倫理の領域として分けようとした。この切り分けは、少なくとも D ⇏ N、すなわち物理的世界記述だけから規範が出ないという直観を保存している。
しかし切断線を「科学/宗教」という制度単位に引くと問題が起こる。宗教は復活、奇跡、創造、輪廻、祈祷の因果効果といったDを普通に含み、規範哲学は宗教の専管事項ではない。Dawkinsが指摘したように、世界へ因果的に作用する神はその限りで通常の世界仮説と競合する。他方、WittgensteinのFrazer批判が示すように、葬送・祝祭・象徴・喪の表現まで「失敗した科学」として読むこともカテゴリー錯誤になりうる。本ページの分類では、Wittgensteinが守ろうとするこうした儀礼・象徴・生の形式の多くは主としてEに属し、その選好的・表出的な意義からDやNの真理性は導かれない。 Dennettの宗教自然化はさらに、宗教信念そのものの生成を認知・進化・文化の因果現象として研究対象へ戻すが、Cause(Belief) ⇒ ¬Truth(Belief) ではない。
Stenmarkの多次元モデルやBrookeのcomplexity principleは、この巨大カテゴリ同士に単一の関係を割り当てることへの疑いを強めた。Brookeの有名な立場では、歴史上「科学と宗教のその関係」という一個の関係はなく、具体的な人物・制度・主張ごとに競合・補完・混合が生じる。本ページはこの局所化をさらにclaim levelへ押し下げる。したがって目標はNOMAの全面否定ではなく、institution-level NOMAをclaim-level non-conflationへ置き換えることである。
2. 世界認識についての暫定的位置
本ページの主題は価値論なので、有神論と自然主義の物理的・歴史的比較をここで決着させない。ただし暫定的位置は必要である。現在の証拠では、既存宗教の詳細な超自然的世界モデルを自然主義的説明より優れた最善説明とはみなさない。近代以後、生命の適応、疾病、天候、天体運動、心理現象など、かつて超自然的主体が説明仕事を担った領域の多くに独立した自然的説明が成立した。これは神の不存在の演繹ではないが、少なくとも多数の具体的神仮説の説明上の必要性を低下させる。
啓示・奇跡・宗教経験・伝承についても、「その信念が存在する」という事実を直ちに対象実在の証拠として使うことには慎重であるべきである。互いに両立しない宗教的証言、文化ごとに変わる経験解釈、認知的agency detection、権威・伝承・制度による増幅などが、対象の実在を仮定しなくても信念形成の一部を説明できるからである。ただし系譜学的解体は主としてundercutterであって、信念内容を論理的に反証するものではない。
したがってlocal atheismとglobal atheismを分ける必要がある。たとえば特定の啓示宗教や特定の人格神モデルへの認識的重みを非常に低くすることと、∀H_supernatural, P(H)=0 とすることは同じではない。本プロジェクトは、具体的な既存宗教仮説へ低い重みを置きつつ、未概念化の宗教的・超自然的候補を仮説空間から排除しない。これは開いた道徳的不確実性と開いた仮説空間の原則を世界認識側にも適用したものにすぎない。
3. 原初的宗教は「善い存在」より「効く存在」を扱いうる
宗教史を「最初から全善神への道徳的服従だった」と読む必要はない。雨乞い、豊穣、治病、航海安全、祟り回避、祖霊祭祀では、宗教的実践はしばしば D + G → R_h(A) の形を取る。神が雨を支配し、雨を望むなら祈る理由がある。祖霊が災厄を起こしうると信じ、災厄を避けたいなら鎮める理由がある。ここで必要なのは権能と因果モデルであって、神の道徳的完全性ではない。ここでHはRhそのものの名前ではなく、Dと既存目的GからRhが生じる実践的含意の層を指す。
宗教的規範の発達を一本道の進歩史とせず、少なくとも四類型に分けるとよい。第一は権能型――「この存在には結果を生じさせる力がある」。第二は応報型――「一定の行為は現世・来世の報酬や罰をもたらす」。第三は規範化型――「神の命令や秩序それ自体が義務を生む」。第四は価値同一化型――「神は善を命じるだけでなく、善そのもの・善の標準である」。これらは歴史的に重なり、後代でも第一・第二類型が大衆実践に残りうる。
日本神話・神道はdivinityとmoral goodnessの分離をよく示す。荒御魂/和御魂、祟る霊の鎮撫、御霊の守護神化では、同じ権能が災厄と恩恵の双方へ現れうる。固定的な「善神/悪神」二分より、現在どのように力が発現し、どう関係を結ぶべきかが前面に出る。したがって Divinity ≠ Power ≠ Benevolence ≠ MoralGoodness は単なる思考実験上の分離ではなく、宗教史的にも実例を持つ。
4. 制裁は規範性ではない
報酬と罰は宗教的実践を動機づける非常に古い装置である。しかし「従わなければ不利益がある」は、原理上は専制国家や犯罪組織の脅迫と同じ形式を取りうる。神が「従わなければ地獄へ送る」と確実に実行できるなら、これは極端に強い Rh を与えうる。それでも R_h(A) ⇒ R_n(A) は成立しない。
思想史的にも、この切断を内側から求める流れがある。Platoの『国家』は正義を評判や報酬から切り離して評価できるかを問う。キリスト教内部でも、単なる罰へのservile fearと、善・神へのfilialな関係を区別する議論が形成された。Shaftesburyは来世報酬・罰を徳の基礎にすることが道徳動機を汚すと批判し、Kantは幸福・傾向性・外的報酬ではなく道徳法則への尊敬からの行為を道徳的価値の中心に置いた。これらの答えが最終的に正しいかは別として、「制裁以上のBが必要だ」という問題意識は共有されている。
J. S. Millの有名な反神義論的姿勢は、この区別を極端な形で可視化する。仮に強大な存在が実在し、拒絶すれば地獄へ送れるとしても、その存在が自分の理解する善に反するなら「善」と呼ぶことを拒み、地獄を選ぶという構図である。これは単なるアクラシアではなく、R_h(obey) を認めながら別の R_n(refuse) を上位に置くsanction rejectionとして再構成できる。Don GiovanniやFaustusは文学的に近いが、自己欺瞞や頑迷さを含むため、哲学的にはMillの例の方が純粋である。
5. Huck Finn――内面化された良心も真理を保証しない
『ハックルベリー・フィンの冒険』の有名な「地獄へ行こう」の場面は、純粋な地獄回避計算とは違う。HuckはJimを逃がすこと自体を悪いと判断し、自分がMiss Watsonの「財産」を盗む手助けをしていると考え、宗教的・社会的良心から罪責を感じている。それでも具体的なJimとの関係と同情が、その明示的判断に反して行為させる。
ここでは主体の実際の動機系 D_A、主体が表象する規範モデル V̂_A=(Ĉ,B̂,R̂)、仮に存在するとすれば真の規範構造 V* を分ける必要がある。Huckは R̂_H(return Jim) を持ち、それに反して行為するので、当人のall-things-considered judgmentを基準にすればakrasiaに近い。しかし後世の評価を入れると、その「弱さ」がむしろ正しい行為へ導いたinverse akrasiaとして読める。
重要なのは文学的評価より一般原理である。外的制裁が文化的学習を経て「無条件に義務だと感じる良心」へ変換されても、social learning → Ĉ + B̂ + R̂ 全体が誤っている可能性は残る。したがって PhenomenologyOfObligation ≠ TruthOfObligation である。これは宗教だけの問題ではなく、Kant的な「理性の事実」、王陽明的な良知、現代の道徳直観主義など、内的拘束感を認識論的証拠として用いる立場すべてへの一般的な圧力になる。
II. 神学は規範性をどこから作るのか
6. 目的Gの作り替えは、要求された瞬間に価値主張になる
宗教は現在の目的へ手段を提供するだけではない。「その欲望自体を捨てよ」「神を愛する主体になれ」「執着から離れよ」「菩提心を起こせ」のように、目的・人格・選好の変容を要求する。ここでは三層を分ける必要がある。
Practice → G0→G1 が心理的・社会的に起きるというだけならDである。現在のG0をよりよく満たすためにG1を獲得することが有効ならHである。しかし「G0ではなくG1を持つ主体になるべきだ」「現在の欲望を棄却すること自体が善い」と言うならNへ入り、その内部でC/B/Rとして審査される。選好変容を新しい宗教的primitiveにする必要はなく、変容の因果説明と変容の規範的正当化を分ければよい。
7. 神学はNの内部でCからBへどう進むのか
Nの内部で「神は善い」「慈悲は善い」「聖性は価値がある」とCを置いても、そこから行為理由・義務は自動的には出ない。本プロジェクトの観点では、神学史のかなりの部分を「どこにBを置くか」という競合として読み直せる。
7.1 神命
神命説は典型的に Command_G(A) → Obligation(A) を主張する。強いvoluntarismでは、神が命じたという事実そのものが義務を構成する。ここでEuthyphro型の問いは単なる「神より上位に善があるか」だけでなく、なぜ命令という発話行為がnormative forceを生成できるのかである。神が全能だから、という答えは制裁能力を示すだけでRhへ戻る。
7.2 神の本性
Adamsのような理論は、善を神の本性・神への類似と結びつけ、義務を神命と結びつけることでCとRを分業させる。これは恣意的な「何を命じても善」を避けるが、今度は ResemblesGod(x) → Good(x) のBを要求する。神の本性が善の標準であることを、単なる定義ではなく認識可能な実質的主張としてどう支えるかが残る。
7.3 自然法と実践理性
Thomistic natural lawでは、被造物の本性・目的・基本善と実践理性を結び、神の恣意的命令より広い秩序の中で規範を説明する。この場合、神は宇宙秩序の源泉ではあっても、個々の理由を毎回命令で生成する必要はない。しかし Nature/Fulfillment → Reason、あるいは Good → ToBePursued のbridgeをどう理解するかは独立したメタ倫理問題になる。
7.4 創造関係・所有・権威
「神がわれわれを創造したから従うべきだ」というルートもある。しかし CreatedBy(G,A) → Authority_G(A) は自明ではない。人間が人工主体を作ったことから、その主体への無制限な所有権や礼拝要求が直ちに出ないのと同様、創造という因果関係から規範的主権へ進むには追加原理が必要である。
7.5 完全な認識者
もっと穏健なモデルでは、神は理由を作らず、真の理由を完全に認識する。すると神は究極の倫理学者・証言者であって、R_n(A) は神命より論理的に先行する。このモデルは神命説のB問題を軽減する一方、規範性の根源を神の外へ移し、残る問題を「神がその真理を本当に知り、われわれが神を信頼できるか」という認識論へ変換する。
これらのどれかが正しい可能性を本ページは排除しない。しかし、存在・全能・創造・知識・善性を一つの「神だから」に圧縮せず、それぞれがN内部のどのC/B/Rを支えるのかを独立に問う。
8. 神は「理由を作る」のか、「理由を伝える」のか
同じ「神がAせよと言った」でも、少なくとも四つの構造がある。第一に認識的伝達:独立に存在する R_n(A) を神が知り、われわれへ教える。第二に証拠:神の発話がわれわれの P(R_n(A)) を上げる。第三に理由生成:命令そのものが R_n(A) を構成する。第四に制裁:報酬・罰によって R_h(A) が生じる。
たとえば「隣人を助けよ」という同一の命令でも、(1) 神が独立の道徳真理を報告している、(2) 信頼できる全知者の証言なので我々のcredenceを上げる、(3) それまで任意だった行為が命令によって義務になる、(4) 従わなければ罰されるので従う、では規範構造がまったく違う。しかも(1)(2)には神の認識的信頼性、(3)にはauthority-generating bridge、(4)には因果能力しか必要ない。
Mark C. Murphyのdivine authority論はこの切り分けをさらに精密化する。Murphyは、神命そのものが決定的理由を構成するauthority thesisと、神が命じたとき決定的理由が存在するというだけのcompliance thesisを分け、前者は後者を含意するが逆は成立しないとする。また全知・全善・全能といった標準的なdivine perfectionsだけでは、神が自動的にauthorityを持つとは示せないと論じる。この分析は本ページの中心原則――Power/Knowledge/Goodness ⇏ Authority――の重要な先行例である。
9. 神の善性は何によって認識されるのか
「神が全善である」を前提としてevilやhiddennessを論じる前に、その全善性を何によって認識したのかを問う必要がある。主要ルートは少なくとも次の六つに分けられる。
- 啓示: 聖典・預言が神の善性を告げる。問題は啓示の真正性と、神の善性を啓示の信頼性に使う場合の循環である。
- Perfect-being theology: 神を「最大限完全な存在」と捉え、善性をgreat-making propertyとして含める。問題は、現実の創造者・究極存在がその概念をinstantiateする根拠が別途必要なことである。
- 存在と善の形而上学: being・perfection・goodnessを深く結びつけ、最も完全な存在を最高善とする。問題はontological goodからnormative/moral goodへのbridgeである。
- 創造・摂理からの推論: 秩序、美、生命、恩恵から善い創造者を推論する。問題は観測選択と、悪に対してskepticalな応答をするほど善の観測も識別力を失いうることである。
- 独立した道徳理性: 我々が善を神とは独立に認識し、その基準に神を照合する。識別力は高いが、規範性の根源を神より上流に置くことになる。
- 宗教経験: 愛・聖性・圧倒的善を直接経験したとする。これは重要な候補証拠たりうるが、
SeemsGood(G) ⇏ Good(G)という現象学と客観的妥当性の問題を免れない。
「God」を定義上全知・全能・全善とすれば、God → PerfectGood は語義的に成立する。しかしそのとき実質的な問いは、「世界を創造したらしい存在」「啓示を送ったらしい主体」「宗教経験の対象」が、そのGod概念の指示対象であることをどう識別するかへ移る。したがって Creator ≠ PerfectGoodGod は常に保持すべき区別である。
III. 全善神はどこまで識別可能か
10. 否定神学――未知の善は神学を救うか
偽ディオニュシオス、マイモニデス、さらに類比述語を重視する古典神学には、人間的な「善」「知恵」「存在」を神へ単純に字義適用することへの強い警戒がある。マイモニデスでは神の本質について肯定的属性を積み重ねること自体が神の単純性を損ないうるため、否定的属性や神の作用を通じた語りが重視される。この認識的謙虚さは、V̂_human ≠ V* を認める本プロジェクトと部分的に近い。
このため「人間には残酷に見えるが、神的な真の善に照らせば正しいかもしれない」という可能性は、本プロジェクトでは論理的に開かれている。現在の人間的goodnessを宇宙的基準へそのまま投影しない以上、悪の問題から全善神一般を演繹的に排除することは難しい。
しかし距離を取れば取るほど代償も増える。Good_G が我々のgoodness概念とほとんど比較不能なら、悪の問題への反証耐性は高まる一方、Good(G) → Trust(G)、Obey(G)、Worship(G) の内容も薄くなる。一般化すれば、apophatic distance ↑ ⇒ falsification pressure ↓, but epistemic discrimination / action-guidance ↓ というトレードオフがある。否定神学は「神が全善である可能性」を守れても、「この存在が全善だと我々が知る方法」を自動的には与えない。
11. Evil-God Challengeを異質価値まで拡張する
Stephen LawのEvil-God Challengeは、全知・全能・全善神を合理的候補とするなら、全知・全能・全悪神をなぜ大幅に低く扱えるのかを問う。善神に対するproblem of evilへtheodicyを提示できるなら、悪神に対するproblem of goodにも対称的説明が作れるのではないか、という圧力である。
既存反論の第一はskeptical-theist型である。Perry Hendricksは、我々が神的理由を十分把握できないなら、世界の善がevil Godを反証するとも簡単には言えないと論じる。これはLawへの一つの応答だが、本プロジェクトから見ると勝敗より含意が重要である。skepticismを対称に適用すると、善神だけでなく悪神も観測から排除しにくくなり、識別問題がむしろ悪化する。
第二は形而上学的非対称性である。悪は善のprivationであり、goodnessの方がbeing/perfectionに存在論的に近い、あるいは完全悪神は完全善神より複雑・不自然だとする。このルートが正しければGood Godにprior advantageを与えうる。しかし Being → Good、Privation(Evil) 自体が実質的な価値・形而上学仮説であり、独立に支持されなければならない。
第三は合理的主体性の非対称性である。完全な合理性は「善として認識されたもの」を追求することを含むため、完全合理的かつ完全悪な主体は概念的に不安定だという応答がある。しかしこれも RationalAgency → GoodMotivation というbridgeを前提にする。直交性の可能性を真剣に取るなら、知能・合理性・目的内容の関係は別途検討対象になる。
第四はpragmatic responseで、善神信仰の方が心理・社会・道徳的に有益であることを認識的地位へ反映させる。しかし本プロジェクトでは原則として Useful(Belief H) ⇏ True(H) を保持する。有用性は採用政策の一部にはなりうるが、世界仮説への認識的重みそのものを直接増やす理由にはしない。
さらに本ページではLawの二項対立を広げる。G+=人間的に善く見える神、G−=人間的に悪く見える神、G*=未知の客観的価値を追う神、G¬*=未知の反価値を追う神、G0=価値に無関心な創造者を区別する。Good/Evilに真の非対称性がある可能性は排除しない。しかし、その非対称性こそ証拠を要する候補理論であり、既存の「神」概念へ無償で埋め込むべきではない。
12. 悪の問題と神の隠れは「識別問題」へ変わる
伝統的なproblem of evilは、全知・全能・全善ならなぜ大量の苦痛を許すのか、と問う。Schellenberg型のdivine hiddennessは、完全に愛する人格神なら、関係を拒絶していない人間が神の存在を誠実に知らない状態をこれほど許すだろうか、と問う。いずれも「全善」や「完全な愛」から、福利への配慮・関係追求・自己開示といった予測を引き出す。
本プロジェクトでは、このbridge自体を仮説として扱う。真の善が人間の現在価値から奇妙に乖離しうるなら、PerfectGood → WelfareMaximization も PerfectLove → RelationshipSeeking も必然ではないかもしれない。神との非接触状態、認識的自立、特定の歴史過程、あるいは全く未概念化の価値が高次に重要である可能性は論理的には残る。
Draper型の比較でも同様である。観測される苦痛分布が「衆生のwell-beingに無関心な創造者」でより予測しやすいとしても、WelfareIndifferent ⇏ ValueIndifferent である。未知の価値を追う神なら、人間福利への無関心と客観的善性が両立する可能性は残る。
しかしこれは神学を無償で救済しない。むしろ、観測に合わせて「真の善は我々には理解不能」と広げるほど、どの観測が G+、G−、G*、G0 を識別するかが不明になる。したがって本ページの中心的反転は、奇妙な善は全善神の論理的可能性を救いうるが、全善神の認識可能性を自動的には救わない、である。問題は「なぜ全善神ならこれを許すのか」だけでなく、「この世界から、なぜその存在を全善だと同定できるのか」へ移る。
IV. 礼拝・文化実践・非一神教
13. 礼拝・神聖性・適合性も分解する
「礼拝したい」という心理的傾向と、「礼拝することが客観的に適切である」は別である。前者は進化・文化・社会化に由来する局所的選好としてE側へ記述できるかもしれない。後者はNに属し、その内部では R_fittingness(Worship,G) のような規範関係として、理由と適合性で扱った根源問題へ戻る。ここでfittingnessをR内部へ置くのは分析上の整理であって、fittingnessをreasonsへ存在論的に還元すると先取りするものではない。
さらに礼拝の内部でも、admiration、gratitude、reverence、submission、allegiance、obedienceを区別できる。創造者に感謝がfitすること、圧倒的価値へ畏敬がfitすること、正当なauthorityへ服従すること、人格全体を捧げて礼拝することは同じではない。Existence(G) ⇏ Gratitude ⇏ Allegiance ⇏ Worship と考えるべきである。
「聖地」も同様である。神が顕現したというD、共同体が特別扱いするE/I、その場で畏敬・沈黙・特定儀礼を行うことが客観的に適切だというN内のRfittingnessを区別できる。fittingnessをprimitiveな規範関係として採用しても、「なぜその対象にその反応がfitするのか」というbridge問題は消えない。
14. 偽でも有用な宗教的フィクションはありうる
宗教的Dが偽でも、儀礼・神話・記念・祖先表象・共通象徴が相互信頼、長期コミットメント、協調、喪の処理を助ける可能性はある。したがって False(D) ∧ Useful(E/I) は矛盾しない。これは宗教を事実主張として免責することではなく、事実的真理と文化的機能を分けるだけである。
ただし UsefulBelief と UsefulFiction も分けるべきである。共同体がフィクションだと理解したまま象徴として共有することと、協調のために虚偽を事実として強制することは違う。価値探索共同体では後者が認識的信頼を毀損し、長期的なerror correctionを弱めうるため、透明なfictionの方が原理的に両立しやすい。
15. 非一神教は別の接続を示す
15.1 仏教
初期仏教のかなりの部分は、苦・執着・業・輪廻・解脱についてのDと、「解脱したい」というGからのHとして再構成できる。Dukkha-model + Goal(liberation) → R_h(practice) である。しかし「苦はそれ自体として除去されるべきだ」「菩薩的選好へ変容すべきだ」と主張するならNへ入り、その内部でC/B/Rの追加分析が必要になる。大乗、とくに菩薩道は単なる自己の解脱欲求から他者の苦への普遍化を強めるが、「なぜ苦が負価値なのか」という最終bridgeはなお独立の問いとして残る。
15.2 儒教
儒教は神命なしに規範認識を構成する複数のルートを持つ。孟子は惻隠などの四端を道徳性の芽として重視し、荀子は欲望衝突を礼・学習・制度によって形成し直す。朱熹は理を宇宙論的秩序と人間本性へ結び、王陽明は良知による直接的な善悪認識を強調する。本プロジェクトからはそれぞれ、MoralFeeling → Truth?、SocialOrder → Normativity?、CosmicLi → Ought?、PhenomenalCertainty → ObjectiveValidity? という別のbridge問題として読める。
15.3 荘子
荘子は新しい最終Cを提示するより、現在の「是/非」「有用/無用」への過剰確信を解体する思想として読むと本プロジェクトに近い。無為・自然・逍遥は、唯一の宇宙的規則への服従というより、固定された評価枠を緩め、変化する状況や他視点へ応答可能でいる技法・生の理想として解釈できる。ただし本プロジェクトがそこから証拠増加と仮説比較による収束可能性を探るのに対し、荘子は「一つの最終的な正しい道」への欲望自体を疑いうる。
15.4 神道・日本神話
神道的事例は、一神教で結合しやすいdivinity、power、goodness、authorityを歴史的に切り離す対照群になる。祟る神を鎮め、守護する神へ関係を変えるモデルでは、神的存在に対する実践理由はまず因果的・関係的でありうる。善性がないから神でなくなる、という概念構造を前提にしない。
同じ原則は北欧神話のRagnarökのようなモデルにも適用できる。現在その世界モデルへの認識的重みが極めて低いことと、論理的にzeroへ固定しないことは両立する。もし証拠が変われば「戦闘に備える」仮言的理由は更新されうるが、「戦闘準備それ自体が客観的に善い」は別のNである。
16. 暫定結論――宗教的可能性を排除せず、矢印を一つずつ審査する
本プロジェクトは、神的存在、啓示、神命、神聖性、祖先祭祀、未知の宗教的価値が真の世界・規範構造の一部である可能性を排除しない。真の善が現在の人間価値から大きく乖離する可能性を認める以上、伝統的なproblem of evilだけから全善な神的存在一般を排除することにも慎重である。
しかし、この開放性は既存神学を認識的に優遇しない。神の存在、啓示の真正性、善性、認識的権威、実践的権威、理由生成能力、義務、礼拝適合性はそれぞれ別個に根拠づけられなければならない。宗教的言語をD/H/N/E/Iへ分解した後、Nの内部に本当に還元不能な規範構造が残るなら、それをC/B/Rの候補として仮説空間へ追加すればよい。それ以前に「神」「聖性」「礼拝」という語だけで新しいnormative primitiveを無償に導入する必要はない。
D + G → R_h。Nを詳しく分析するときには N = C | B | R とし、Rはreasonsだけでなくought、obligation、permission、fittingnessなどの規範関係を含む。これはそれらの存在論的な基礎関係を先取りしない。Existence(G) ⇏ Good(G); Knowledge(G) ⇏ Authority(G); Power(G) ⇏ Rn; Creator(G) ⇏ Ownership/Obedience; Good(G) ⇏ WorshipWorthiness(G).
仮説空間から排除しないことは、現在の実践への特権や拒否権を与えることではない。各矢印は、他の価値候補と同じ認識基準で独立に審査される。