表出主義は価値不確実性をどう変えるか
1. まず二つの問いを分離する
表出主義を検討するとき、少なくとも二つの問いを分ける必要がある。
- 意味論・心理・実践の問い: 人間が「Xは悪い」「Yをすべきだ」と言うとき、どのような心理状態・態度・計画・規範的コミットメントを表しているのか。
- 存在論の問い: 人間の現在の道徳実践とは独立に、客観的な理由・価値・規範性が存在するか。
前者についてexpressivismが非常に成功しても、後者の答えが自動的にanti-realismになるとは限らない。本ページではこの分離を中心に置く。
2. 表出主義の魅力は残る
expressivismは、道徳言語の強い実践的性格を説明する。「Xは悪い」は、単なる世界記述というより、Xへの否定、Xを避ける計画、Xを許容しない規範的姿勢などと深く結びついている。BlackburnやGibbard以降の洗練された非認知主義は、こうした実践的役割を保ちながら、道徳的truth、fact、logical inference、disagreementの語彙をどこまで回収できるかを追究してきた。
したがって本ページは、道徳言語にexpressiveな機能があること自体を否定しない。むしろ、現在の人間道徳を理解するうえで有力な説明仮説の一つとみなす。
3. 「表出」は内面態度の透明な読出しではない
「表出主義なら、発話は必ず話者の実際の内面態度をそのまま表していなければならない」という理解は強すぎる。人は嘘をつくことができ、社会的圧力に従って発言でき、自分の態度を誤認することもできる。ある表現が慣習的に特定の態度・コミットメントと結びついていることと、個々のtoken発話が現実の心理状態を忠実に漏らすことは別である。
したがって、虚偽・演技・自己欺瞞・非意図的表出が可能であるというだけでは、洗練されたexpressivismへの直接反例にはならない。
より強い問いは、十分に誠実で意味を理解している主体が、実際に「Xは悪い」と判断しながら、expressivistがその判断に本質的だとする非認知的態度を欠くことが可能か、である。この問題はmoral judgmentとmotivationの関係、そしてhybrid / ecumenical expressivismへ接続する。
4. 「Xは本当に悪い」という用法も、既知の問題である
日常の道徳発話は、しばしば単なる「私はXが嫌いだ」という自己報告より強く振る舞う。「私も社会も全員Xを肯定していたとしても、それでもXは悪かった」「相手は単に違う態度を持つのではなく、間違っている」といった発話が自然に成立する。
ただし、これはそのままexpressivismを反証しない。quasi-realismはまさに、非認知主義的な基礎から、truth、objectivity、error、mind-independenceらしい道徳語法をどこまで正当に回収できるかを問題にしてきた。
したがって本ページの問いは、「道徳発話が客観的に聞こえるか」ではなく、quasi-realistに回収された実践内部の客観性と、主体・共同体・実践とは独立した規範性が本当に同一か、である。
5. folk moralityを一枚岩の実在論として扱わない
「普通の人は皆、道徳を普遍的・客観的事実として理解している」と一般化するのも避けるべきである。folk metaethicsの実証研究では、ある道徳問題について強いobjectivist反応が見られる一方、論点や文化的距離、disagreementの提示方法によってrelativistな反応も増える。
より控えめで堅い主張はこうなる。人間の道徳実践には、単なる個人的態度表明を超えて、発話者・共同体・時代を越えた正誤を要求する用法が明確に存在する。しかし、そのcommitmentがすべての人・領域で一様であるとは限らない。
6. human moral semanticsからvalue ontologyは直接決まらない
ここがCoreにとって最も重要な点である。仮に、人類の「善」「悪」「べき」という語彙が歴史的・心理的には、態度調整、協調、非難、計画共有などのために形成され、その現在の意味論もexpressivistに最もよく説明できるとする。
それでも、そこから人間の実践とは独立した規範的事実が存在しないとは直ちに導けない。人間が現在「倫理」と呼んでいる活動が、宇宙に存在しうるnormativityを完全にトラックしている保証はないからである。
極端には、人類の現在の道徳言語がほぼ全面的に社会的態度の調整装置でありながら、人類がまだ認識していないpractice-independentな理由や価値が存在する、という組み合わせも論理的には可能である。
これはrealismの証明ではない。expressivismの意味論的成功だけでは、未知の客観的normativityの存在確率をゼロにできない、というanti-closureの主張である。
7. 「われわれの日々の営みと無関係な場所」に倫理がありうる
客観的normativityが存在するとしても、それが人間の罪悪感、公平感、協調習慣、現在の苦痛概念、あるいは既存の「道徳」語彙と強く対応する保証はない。将来の認識主体が、現在われわれが倫理問題として分類していない物理的・現象的・関係的構造の中に規範性を見いだす可能性も、最初から排除すべきではない。
したがって、現在のmoral discourseを完全に分析できたことと、normativityそのものの存在論を解明したことは同じではない。 これは「未知の倫理が必ずある」という主張ではなく、現在の言語実践を宇宙論的な探索空間の境界として固定しないという方法論的留保である。
8. Coreとの緊張は弱まるが、消えない
以前の版では、強いexpressivismが正しければvalue inquiryは外部真理の発見から構成・再構成へ移る、と比較的直接に扱っていた。これは強すぎた。
より正確には、expressivismが人間の現在の道徳言語について正しいなら、既存道徳の研究の大きな部分は、態度・計画・制度・反省的承認の構成問題として理解される。しかし、価値探索全体が構成へ還元されるとは限らない。practice-independent normativityが存在する可能性を残す限り、その探索は別レイヤーとして存続する。
したがってCoreは、「既存の道徳言語が客観的事実を記述している」という仮定に依存しないまま、未知の価値・理由・規範性を探索する余地を保存できる。
9. 停止条件はexpressivismだけでは否定されない
以前の版では、強いexpressivismが正しければ「規範的拘束性をもつ客観的価値が最小基礎に直接現れる」という停止条件自体が成立しない可能性が高い、とした。
ここは修正する。人間の道徳言語についてのexpressivismが正しいだけでは、基礎的規範性の停止条件は否定されない。 それを否定するにはさらに、「人間の実践・態度・構成から独立した規範性は存在しない」という存在論的anti-realismが必要になる。
逆に、将来何らかの認識主体が、現在の道徳語彙とは独立に、それ自体で理由を与える規範性を基礎層または極めて強い最善説明として発見したなら、その発見は依然としてCoreを大きく更新しうる。
10. 暫定的な位置
- expressivismを、人間のmoral discourseについての有力な説明仮説として扱う。
- 表出を、話者の現在心理の透明な読出しとは扱わない。
- 道徳語法のrealist-seeming characterが、quasi-realismの既知の説明対象であることを認める。
- folk moralityが一様にobjectivistだとは仮定しない。
- semantic expressivismとglobal ontological anti-realismを分離する。
- 現在の人間道徳の構成性から、未知のpractice-independent normativityの不存在を推論しない。
現在の道徳を宇宙の最終価値として固定しないのと同様に、現在の道徳言語の意味論を宇宙の価値存在論として固定しない。
Sources / notes
非認知主義・expressivism・quasi-realismの概観については Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Moral Cognitivism vs. Non-Cognitivism” および “Moral Anti-Realism”。hybrid / ecumenical expressivismについては Michael Ridge の関連研究を参照。folk metaethicsの多様性については Geoffrey P. Goodwin & John M. Darley, “Why Are Some Moral Beliefs Perceived to Be More Objective Than Others?” などの実験研究を参照。practice-independent moral realismの可能性については SEP, “Moral Realism”。本ページはexpressivismの包括的反証ではなく、意味論的説明からnormativity全体の存在論へ移る際の追加前提を明示するための検討である。